大判例

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東京高等裁判所 昭和47年(う)2942号 判決 1973年3月26日

被告人 北原よし子こと北原ヨシ子

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人長谷川宰の提出にかかる控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用し、これに対し当裁判所は、次のとおり判断する。

所論は、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるという主張であつて、その理由の要旨は、(一)原判決は、被告人が前方注視義務に違反し、被害車両を発見しなかつたと認定しているが、右事実を認定するために、不可欠であるところの右折時における被告人車両と被害車両との間の距離については、なんら判断をしていない。証拠によれば、被告人が、右折を開始した地点から衝突地点までの距離は一三、四メートルであり、その間の被告人車両の速度は、時速約一〇キロから二〇キロメートル程度と推定されるから、被告人車両の右折開始後、衝突地点までの所要時間は、二、四秒から四、八秒であり、平均三、六秒である。他方、被害車両は、時速約四〇キロないし五〇キロのスピードで走行していたものと推定されるので、被告人が右折開始後、衝突地点にいたるまでの所要時間は、右約三、六秒程度であるから、被告人車両が右折を開始した時点において、被害車両は、衝突地点より四〇メートルないし五〇メートルの地点にいたことになる。この点原判決は、単に二〇メートルないし三〇メートルは見とおしがきくという事実から、直ちに被告人が、被害者を発見しなかつたことは、前方注視義務に違反したからであると判示しているが、前記のように、被害車両は少なくとも四、五〇メートル前方の地点にあつたのであるから、原判決の認定するごとく見とおしが二、三〇メートルしかきかなかつたとする以上、被告人に直ちに、右のような前方注視義務違反を問うことはできないはずである。(二)原判決は、被告人が地理不案内のため、国道六号線より潮来方面への分岐点が判らず、その発見に気を奪われ、前方注視を怠り、被害車両を発見することができなかつた旨判示している。この点についての証拠によると、被告人は、潮来方面に右折する交差点を探していたことは認めているが、道路標示を確認しようとして一〇秒ほど停車していたところ、同乗の夫に「ここだ」と云われて、六、一メートル前進してから、始めて右折を開始している。また、その間も急ぐ理由もなく、右のように、急に右折したのではなく、六、一メートル前進していることから推測されるように前方注視を怠つたとは考えられない。(三)原判決は、被告人が長時間の運転により、疲労していたと認定しているが、当日被告人は、車で相模原市の自宅より伊東に行き、伊東から潮来に行く途中本件現場に来たのであるが、その所要時間は、一三時間三〇分であつて、原判決は、この時間を運転時間とみなしているが、実際の運転時間は、自宅から伊東までが二時間三〇分、伊東から本件現場までが四時間であるから、残りの六時間半は休憩時間である。(四)被害者の側において、本件事故の主たる原因を作つていることは、原判決も、結論において認めているが、認定した事実は、帰宅を急ぐ余り、往来の閑散を幸いに、前方道路に注意を払わなかつたというだけである。この点に関する証拠によれば、被害者は、寒さと疲労と、他に走行車がなかつたため前方を見ずに下を向いて運転走行しており、このため衝突する約八メートル前に始めて被告人車両に気付いているのであつて、この点が事故の主な原因であることが明白であるのに、原判決は、この点をあいまいにしている。また、かりに被害車両に前照灯がついていたとしても、前記のとおり実際は、四、五〇メートル以上前方であることと実況見分調書添付の交通事故現場見取図により事故現場の前方は曲線となつているため、被害車両の前照灯の明りでは被告人車両の位置を確認できないと考えられる。(五)本件事故時における旧道路交通法第三七条第二項によれば、既に右折している車両がある場合は、直進車両は、その右折車両の進行を妨げてはならないと規定されている。前記実況見分調書添付の交通事故現場見取図によれば、衝突の時点において、被告人車両は、右折開始後、一三、四メートル進行しており、既に右折を終了しているから、右道交法の規定からはもちろん、本件交差点に黄色の点滅信号がついていたことからも、被害者側において、同法違反を問われるべきことは明らかである。しかるに、原判決は、被告人の側に前方不注視の過失があるということから、信頼の原則の適用ある場合には当らないとしたのは不当であるといわなくてはならない。(六)昭和四七年四月七日最高裁第二小法廷は、本件と類似した事件について、信頼の原則を適用しなかつた原判決を破棄し、信頼の原則を適用すべき旨の判決をしている、というのである。

よつて、審案するに、記録によると、

一、本件起訴状(略式命令請求)記載の公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四六年三月二二日午前零時三〇分ころ、普通乗用自動車を運転し、茨城県竜ヶ崎市佐貫町二五九番地先の交通整理の行なわれていない交差点を東京方面から竜ヶ崎市内方面に向かい右折するにあたり、左記過失欄③号掲記(右折の合図をし、徐行しつつ、対向車両または右側の並進車両もしくは後続車両との安全を確認すべき注意義務があるのに、その合図をしたが、対向する前記赤平年三運転の車両との安全を確認しないで時速約一〇キロメートルで右折進行した過失)の業務上の過失により、自車左側面部を水戸方面から対向して進行してきた赤平年三(当一九年)運転の原動機付自転車に衝突転倒させ、よつて、同人に加療約四ヶ月間を要する左前膊骨骨折等の傷害を負わせたものである。」というにあるところ、原判決は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四六年三月二二日午前零時三〇分ころ、普通乗用自動車を運転し、茨城県竜ヶ崎市佐貫町二五九番地先の交通整理の行われていない交差点を、東京方面から竜ヶ崎市内方面(潮来方面)に向かい右折するに当り、地理不案内のため分岐する交差点の確認等に気を奪われ、道路前方に対する確認を怠り、自車左側部を水戸方面から対向して進行してきた赤平年三(当時一九年)運転の原動機付自転車に衝突転倒させ、よつて同人に加療約四か月間を要する左前膊骨骨折等の傷害を負わせたものである。」との事実を認定していることが、その判文上明らかである。

二、そこで、本件事故につき被告人に業務上の注意義務を欠いた過失があつたかどうかの点について考察する。

1、本件に適用される昭和四六年法律第九八号(昭和四六年一二月一日から施行)による改正前の道路交通法第三七条第一項は、「車両等は、交差点で右折する場合において、当該交差点において直進し、又は左折しようとする車両等があるときは、第三五条第一項又は第二項の規定にかかわらず、当該車両等の進行を妨げてはならない。」と明規しているが、同条第二項は、「車両等は、交差点で直進し、又は左折しようとするときは、当該交差点において既に右折している車両等の進行を妨げてはならない。」と規定しており、同条項にいう「交差点において既に右折している車両等」とは、交差点内で、車体が右を向き、対向車線内に入つて右折を完了した状態をいうものと解するを相当とする。

2、原判決挙示の証拠を総合すれば、

(イ)  本件事故現場の状況は、東京方面から土浦市方面にいたるアスフアルトで舗装された平坦な茨城県竜ヶ崎市佐貫町二五九番地先の国道六号線道路(幅員一二、八メートル)と右道路からやや東方に分岐する県道潮来線とが丁字形に交差する丁字路交差点であつて、信号機は設けられていたが、事故当時は黄色の点滅信号が作動していただけであること、

(ロ)  被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四六年三月二二日午前零時三〇分ころ、普通乗用自動車(車幅一、六九〇メートル、車長四、六五五メートル)を運転し、右(イ)記載の国道六号線道路上を東京方面から土浦市方面に向け進行中、竜ヶ崎市内方面(潮来方面)に右折するため右(イ)記載の丁字路交差点に入る手前で一時停止し、右折の合図をしたうえ、進路の前方および右方の道路を見て約六、一メートル前進した地点から右折を開始し、時速約一〇キロメートルで約一三、四メートル進行した地点、すなわち、自車の車首が右(イ)記載の県道潮来線道路の入口の方を向き、車体が右国道六号線道路の対向車線内に完全に入つた状態になつたところに、右国道六号線道路上を土浦市方面から進行してきた赤平年三運転の原動機付自転車が自車の左側面部に衝突したこと、

(ハ)  他方赤平年三は、右(ロ)記載の日時ころ、原動機付自転車(なお、鍵がなく、配線を直結してエンジンを始動させ、前照灯の照射距離は約一五メートルくらいしか届かないもの)を運転し、長く運転してきたため疲労が出たうえ、寒さを感じ、また、車が少なかつたので、よく前方を見ないで、下を見ながら、右(イ)記載の国道六号線道路の左側部分の中央付近を土浦市方面から東京方面に向け時速約四〇キロメートルで進行中、右丁字路交差点内の約八、八メートル前方に右折しかかつて、自車の進路に入つていた北原ヨシ子運転の普通乗用自動車を発見し、ブレーキをかける間もなく、自車の前輪を右北原運転の車両左側面に衝突させたこと

を認定することができるのであつて、記録を精査しても、これを覆すに足る証拠はない。

以上認定した事実関係のもとにおいては、前記二の1記載の道路交通法第三七条第二項の規定から、赤平年三は、交差点において既に右折している北原ヨシ子運転の車両の進行を妨げてはならないのであり、しかも、赤平が前方注視義務を尽していれば、前記丁字路交差点の相当手前から右北原運転の車両が右折することを認識することができる状況にあつたとうかがうことができるから、被告人に原判示のような注意義務を課することはできない。

けつきよく、原判決のかかげる証拠によつては原判示過失を認めることができないので、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により被告事件について、さらに判決をする。

本件公訴事実は、前記一の前段に記載したとおりであるが、被告人に業務上の過失があつたと認めるに足る証拠がないから、刑事訴訟法第三三六条後段により無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。

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